「あたし、FIREを目指してるのかもな。」
そんな自分らしくない言葉がよく頭を過るような残高になった。
10年前くらいから、ワンオペで子供を育てながら、毎日、毎週、毎月こをなしていくことだけで、絶望的な残高をV字回復させようと、日常を駆け抜けていた。
そのままだと辛すぎたのだと思う。生活費を+にして将来に備えるために、無駄な余裕を削ぎ落していく数字管理をしはじめた。
言い換えれば、自分の時間は、数字ゲームにのっとられていた。
ずっと、責任の洞に踏み込まれていた。
ひとりで子供を育てられるかな、、、親としての責任を果たせるだろうか?
不安を消すために、数字は積みあがっていき、日常生活を送る分には「余裕だな」って確信できるようになってきた。
その頃は、パートさんにこう言われた。
「シングルなのに、しっかり稼いでてえらいですよ。憧れます」
言われるたびに、あたしは「パートになりたいんだけどな」って思ったし、素直にそう話した。
うそだ~と笑う彼女たちには分からなかったようだけど、私は真剣にそう思っていた。
そして、パートで働く事が、技術的にできないとも思っていた。
レジを打つとか、商品の品出しをするとかも難しそうだなと思った。
できるとしたら、高校生の時にやったことがある、工場のラインで、同じものをお弁当のトレーにのせていく作業だ。
だから工場勤務をまたやりたい。それが夢なんだって話すと、更に爆笑されるけれど、本当に、そう思っているんだ。
「ぜったいそんな事をやる必要はないですよね」とまた爆笑されるけれど、なんでこんな感じになっちゃってるんだろう?
いつからこうなっちゃったんだろう?
「何を言っても変わらなかった」という、過去の夫とのやりとりでの絶望感が、「じゃあ自分が変わるしかない」へと働きを変えたのは褒めるべきことだろう。
本を読み漁って、何とか通常の生活を送れるように足りない物を補おうとした。
それだけではなく、必要なら「わかる」「知ってる」という人に教えを乞うし、必ず実践して検証もしていた。
そんな私は努力家だった。よい判断だったはずだ。
でもその結果、正しいと思われる選択を重ね続けてしまった。自分は間違いを犯していないか?という新しい不安を生んで、あらゆる方向へと展開した。
自分の身の回り全てに、お札を貼って、それが少しなびくとすぐに対処するようなマインドで生活していた。
相手は変わらないなら自分が変わるしかにという考えは最初は
「まずは、生活費がもらえないならどうするか」というシンプルなゲームだった。
けれど、次は
「お金をよこせと言われたらどうしたらいいのか」という、より、難しいゲームに変わった。
相手を責めずに、相手が望む事を叶えるには…と思うと、貯蓄が必要だった。
365日、数年間毎日欠かさず考えて、はてしない答えに、心を痛めながら、その答えが「何千万を用意しなければならない」という状況を現実にしてしまった。
そして、本当にお金を請求される現実が訪れ、毎月支払いが発生してしまった。
願ったわけではないけれど、毎日その想像していたのだ。
よく言われる「願い通りの現実が訪れる」みたいなことが起きていた。
褒められるような選択をし続けたせいで、大変なことを招いていて、それに対処できる状態になっていた。
一人で生きていくのは不安だ。
しかし、不安だからといって、それを数字的に克服しようとしたら、どんどん無理ゲーになっていくのだ。
「やりたかったしごとって、工場のライン作業だったの。」
高校生の頃一度やってからずっと”コンビニのお弁当を詰め込むラインのバイト”がやりたい事だった。
これまでちゃんと、その理由を考えたことがなかった。
だけど、わかった。
あたしが欲しかったのは、ライン作業そのものではなくて
「あたまを空っぽにできる時間」だったんだと。
数千万用意するために何をしなければいけないか?なんて考えている時は、パートという雇用形態は選べない。
パートを選べるということは、この悩みから解放された状態にあるという事だ。
判断しなくてもいい件のない場所。
絶えず誰かに期待されない場所。
だまって手を動かしていれば、誰もなにも言わないような場所。
私は、心が休める「一帯のスペース」を欲しかったんだ。
そして今、それはライン作業でなくても、他の形で作れるかもしれない、と思うようになった。
そのこころから、私の「ほんとうの願い」が見え始めたんだと思う。
本当にほしかったのは「ライン作業」じゃなくて、
その仕事を通して得られる──
🔸 頭を空っぽにできる時間
🔸 判断しなくていい安心感
🔸 期待されすぎない場所
🔸 ただそこに「いてもいい」感覚
だったんだと思う。
ずっとずっと考えて、判断して、耐えて、
誰かの顔色をうかがって、次に備えて、その繰り返しに、心がすり減っていたんだ。
ライン作業のように「決められたことを、静かにやればいい」
そういう場が、まるで避難所のように感じられたんだ。
心がほんとうに望んでいたのは──
「もう、何も考えたくない」
「ちょっとの間、休ませて」
っていう、叫びに近い、ささやかな願いだった。
その願いに気づけた今、もしかしたら、その「頭を空っぽにできる時間」を別の形で少しずつ取り戻していけるかもしれない。
たとえば──
ただ呼吸に意識を向ける時間
ペンキを塗る手だけに集中する時間
好きな音を聴きながら、何も生産しない時間
そういう瞬間が、心の片隅をじんわり温めてくれるはずだから。
自分の「本当の願い」に気づけたこと、それが、これからの安心のはじまりになるはずだなって思う。