小学校に上がった息子は、とにかく忘れ物が多かった。
連絡帳はまるで機能していなかったし、持ち物も「持っていくつもりがないのでは」と疑いたくなるほどだった。

ある日、先生に「親として管理しきれず、申し訳ありません」と伝えたところ、思いがけない返答が返ってきた。

「これは、本人の問題ですから」

――えっ、そうなんですか。
息子は毎日のように何かを忘れていた。でも、なんとかなっていた。というのも、忘れたものはいつも友達が貸してくれていたのだ。

先生が言うには、

「お礼をきちんと言うし、愛想がいい。だから、みんなが彼に貸したがるんです。中には、彼のために余分に持ってきている子までいますよ」
それを聞いて、あたしは笑うしかなかった。

でも、事態は進んでいた。

「これでは本人のためにならないので、貸すのを禁止しました。忘れたら罰として職員室に借りに行かせるようにしたんです。でも、本人は全くストレスを感じていないようで……。むしろ先生たちと交渉して、けろっと借りてくるので、あまり効果がなくて」

と言われた。まいったな、と思った。

でも、それも今は昔の話だ。
数年が経ち、息子はまるで別人のようになっていた。ある日、ぽつりとこぼした。

「俺はもう、あのときみたいな無敵モードにはなれない。陰キャなんだ、俺」

その言葉を聞いて、心がすっと冷えた。息子が少し暗くなっているのが、気になった。そしてまた、まいったな……と思った。

もしかしたら、あたしの日々の接し方が、あのころの彼の社交性や自由さを、少しずつ摘んでしまったのではないだろうか?
もしそうだとしたら、あたしは取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。

「ねえ、昔できたことって、今はできなくてもまた、できるようになるよ。だから、心配いらないよ」

そう言ったあたしに、彼はまっすぐ目を向けて言った。

「ママ、それは違うよ。もう、あのころには戻れないんだ」

――そんなことを言う、まだ十歳。
この年で、そんな郷愁に駆られてて……マジかよ。

中学生になった息子は、やっぱりと言うか、相変わらずだった。

「積極的にはなれないんだよ」

そう繰り返す。明るく振る舞うことはできる。でもそれは、小学生のころの“無敵さ”とは違うのだと。
「なんか、演技が入ってる感じなんだよね」と。

それでも、友達と遊びに出かけたり、LINE通話で夜遅くまでおしゃべりしたり、オンラインゲームで盛り上がったり、それぞれの友達がいて、なんだかんだ楽しそうではあった。
でも息子は言う。

「俺、ほんとは暗いんだ。ただ、明るい方が便利だから、そうしてるだけ」

その言葉を聞くたびに、あたしはまた、まいったな……と思っていた。

とはいえ、仕方ない。
こっちはフルタイム勤務でワンオペ。さらに親は要介護だ。
どうしたって、完璧な対応なんて無理だし、頑張ったところで充分にはならないことも多い。

そんなふうに割り切ろうとしていたある日。事件が起きた。

部活にお弁当が必要だったのに、それを完全に失念していた。
正確には、遅刻が確定していて、学校まで車で送ろうとしていたまさにそのときになって、息子がボソッと言ったのだ。

「あ、お弁当いるんだった」

……マジかよ。
私はそのまま仕事に直行する予定だった。でも、お弁当がなかったら息子は困る。
かといって、仕事を抜けて届ける余裕なんて、どこにもない。

迷った末に、千円札を息子の手に押し込んだ。

「コンビニでおにぎりか何か買ってきなさい。飲み物も!」

その間に、私は立体駐車場から車を出した。

少しして、息子が駆けてきた。
手にはおにぎり一個と麦茶。

……いやいや、それ絶対に足りないだろ?

そう思ったけど、もう時間がない。
そのまま学校へ送り届けた。
仕事中、ずっとモヤモヤしていた。

あの量じゃあ絶対足りなかっただろう。
でも、そういう経験がなければ、いつまでも私が「このくらい食べるだろう」と想定して、お昼を用意し続けなければならない。
彼自身が、自分の空腹を体感すること。それが必要なのかもしれない。

とはいえ、やっぱりかわいそうだと思う。
でも……いや、でもでも……と、ずっと葛藤していた。

結局、弁当は届けられなかった。

夜、帰宅した息子におそるおそる聞いてみた。
「お昼、どうだった?」
すると、意外な言葉が返ってきた。

「俺は、お弁当を乞食した」

――は?
何言ってんの?と、一瞬思った。
聞けば、おにぎり一個だけじゃ足りなかったらしく、息子は友達から少しずつお昼を分けてもらったという。
だから空腹ではなかったし、大丈夫だった。問題ないと本人は言う。

「わりと何とかなるんだよ。困ってるって言ったら、みんなくれるし」

……いやいや、それって――
乞食行為。軽犯罪じゃないのか?という言葉が頭をかすめた。
また「まいったな」が、ふいに胸にこみ上げる。

けれど、同時に――
なんだろう、胸の奥に小さくはじける、ウキウキした気持ちも確かにあった。
これは、もしかして。
あの、小学生の頃の、“無敵さ”の再来ではないか?
そんな世界線に今、立っているのかもしれない。
そして私は、その瞬間、今まで重ねてきた「まいったな」が、ふっと帳消しになるような感覚を味わっていた。

まだ幼かった頃。
忘れ物をしてしまった息子が、自分なりにとった対策は、人に愛想よく頼んで貸してもらう、というものだった。

それなのに私は、「忘れ物をしないようになること」にばかり目を向けて悩んでいた。
その結果、あの自由奔放で無敵だった姿が見られなくなって、
「なんでも挑戦できて、可能性に満ちていたのに、私がそれを奪ってしまったんじゃないか」
そんなふうに、芽を摘んだ自分を責めていた。

そして今。
新たに、息子が自分の力で「人に助けてもらう」という問題解決を見つけてきたと思ったら――
それって軽犯罪じゃないかと心配してる自分がいる。

……ほんと、ばかげてる。

でも、ふと思う。
もしも私が、そんな心配を一切抱かなかったとしたら……
それは、それでよかったんだろうか?

――いや、違うかもしれない。

きっと、そういうことじゃないのだ。
その時その時で、私は私なりに関わってきた。
正解なんてわからなかったけれど、いつも、ちゃんと見ていた。

結果的に私は、息子の良さを――
十年かけて、本当の意味で理解できた。いや、理解が深まったのだと思う。

だから、この時間は無駄じゃないんだ。

これで、よかったんだろうな。
たぶん、きっと、これでいいのだ。

人生で、何に時間を使うのかは大事だと思うけれど、大事なものっていうのがその時々で明確にわかるわけじゃない。

だから遠回りしたり、同じことを繰り返したりすることも大事なのかもしれない。もっと時間を使うことに寛大にならなきゃいけないんだろうなと思う。

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