たとえば、こんな場面があります。
夫と話していると、なぜか会話が噛み合わず、平行線のまま終わってしまう。
よくあるのは、こんなやり取りです。
妻は「この車がかわいいから欲しい」と言う。
夫は「性能を考えると、こちらの方が価値がある」と提案する。
どちらも間違っているわけではありません。
でも、どうするかを決めようとすると話はなぜか噛み合わないので、どちらか譲らない方の意見を採用しがちです。
一見すると、夫は思考、妻は感情で話しているからだ、と説明することはできます。
それでも納得はできるのですが、実際に起きていることはもう少し違います。
ここで起きているのは、
「価値のズレ」ではなく、
価値の置かれている場所のズレです。
夫は、性能や価格といった、比較できる指標で話しています。
一方で妻は、「かわいい」「気分が上がる」といった、
まだ数値に変換されていない価値を扱っています。
このとき夫の側からは、「かわいい」という理由は評価しにくくて、場合によっては、根拠の弱いものとして扱われてしまいます。
でも実際には、その車に乗ったときに気分が上がることや、日常が少し楽しくなることは、確かに存在している価値です。
もしここで、夫が
「この車の方がかっこいいと思う」
と話していたら、少し違う形になっていたはずです。
その場合、議論は性能ではなく、「どちらの想いを優先するか」という話に変わります。
つまりこれは、正しさの問題ではなく、どの価値を採用するか、という問題です。
ただ、多くの場合はここで止まってしまいます。
なぜなら、「かわいい」や「気分が上がる」といった価値は、小さすぎてうまく言葉にできないからです。
でも本当は、その中には
・なぜ気になるのか
・どんな気分になるのか
・それによって日常がどう変わるのか
といった、細かい動きが含まれています。
こうしたものは、普段はほとんど観測されません。
だからこそ、比較もされず、存在しないもののように扱われてしまいます。
観測するというのは、そうした、まだ言葉になっていない価値を、そのままの形で置いてみることです。
「それって、どんな気分になるの?」
「なんでそれが気になったんだろう?」
そうやって見ていくと、それまで見えていなかったものが、少しずつ形を持ち始めます。
すると初めて、比較できなかったものが、同じ場所に並びます。
意見がぶつかっていたように見えたものも、実は
「見えていなかっただけ」だった、ということがあります。

