一時期、私は会議室で実験をすることにハマっていた。
今思うと、あの頃はまだ、サラリーマンとしての仕事を楽しむ余裕があったのだ。

手渡された資料には、コンサルが作成した現状や他社分析が書かれている。
資料は、該当部分をきちんと目で追うことで「仕事中ですよ」と見せるための看板として機能する。

もしも発言を求められたら、該当部分に関連する自部門での事象を話すことで、肩書にあった管理能力を表現する。
会議とは、そういう管理プレイになっている事が多々あるのだ。

この管理プレイになっている会議で、ある質問を投げかけると、ほとんどの管理者が答えないということを発見した。

「……で、どう思います?」

エアコンのファンがバーチカルブラインドを揺らす音が目立つようになる。誰かのボールペンのカチリという音。
毎回、部屋には静寂が流れる。けれど、返事はない。

私はそれを発見してから、うそだろ?と思ってずっと実験してきた。
「私はこう思いますけど、どうですか?」
問いの余白に、誰かが何かを差し出してきたりするのかな?という期待も捨てきれなかったのだ。

……が、沈黙は、やはり、沈黙のまま返ってきた。
しつこくやると、次第に役職者は私に目を合わせなくなる。

発言するのは平社員ばかり。
つまり、管理職になってなければ発言できるのだ。
さすが管理プレイ。

「どう思いますか?」と聞いても誰も何も言わない会議。
それでも私がしつこく問いかけるのは、“考えること”の火種が、そこにまだ眠っていてほしかったからだ。
そうでなければ、仕事が楽しくなるような化学変化は起きないからだ。

だが何度も繰り返すうちに気づいた。
その火は、ただ眠っているのではなく、封印されているんだろう。

私の勤める会社だけかもしれない。
だが、実験を繰り返しているうちに気が付いたのは、肩書が上にいけばいくほど、人は言葉を発しなくなるのだ。
意見を言わず、方針を示さず、ただ誰かの決定に頷く。
まるで、「答えること」が何かを失うリスクだと言わんばかりに。

ずっと、逆だと思っていた。
つまり、上に行くほど決定権がある。

好きにできるから上に行きたいのだと思っていた。
だから「俺はこう思うから、こっちをやろう!」となるのだとばかり思っていた。

人間は不思議な生き物だ。
そんなふうに考えてしまったせいで、ちょっと変わった人扱いになってしまいそうなので考えをまた改めた。

働く場所では“思い通りにしないことで報酬を得ている”ってことなんだろう。
「だいじょうぶか?」
どう思うかの回答を避けるためにマネージャー陣が私の発言を全員で無視するという雰囲気が確定した頃、会話せずとも一致団結する彼らのあまりにも頑なな意思が、なんだか怖くなった。

おかしいよね?
仕事を離れると、誰もが「こうしたい」「こうありたい」と言う。
SNSの投稿、日常の愚痴、家庭での意見――
それらには確かに「思い通りにしたい」という、ささやかなけれど揺るがぬ意志がある。

だけど仕事ではがんばって上に行くほど、思い通りにしないぞという覚悟を持ってしまう。
この欲求不満な人生は、何十年もかけて進み、今や70歳まで続けてもらおうという雰囲気になってきているのだ。

どう思います?の問いに、真剣に答えることも、もはやばかばかしいのかもしれない。

最近では、問いをAIに投げる人も多いし、使わずには生き残れない。

「これって、どう思いますか?」
「稼げるにはどうしたらいいですか?」
「フォロワーを増やすには?」

AIはとてもよくできていて、瞬時に整理された答えをくれる。
それは確かに楽だし、ある意味では“正しい”。

自分で考えるよりも、まずはAIに最適化してもらう方が賢い選択なんだ。
けれど、ふと思うのだ。

「考えること」を手放して、“結果”だけを受け取る生き方は、ほんとうに豊かだろうか?
それは、「自分の人生」ではなく、
“誰かに最適化された人生”を上演しているだけではないのだろうか?

そんな世界に何十年も身を置かなければならないのなら、苦しすぎる。
そのことが腹落ちしたとき、私は心の奥でつぶやいていた。

「救ってあげたいな」

誰かのことを言っていたのではない。
そうやって、思考を押し殺し、
答えを凍らせてきた自分自身のことだったのかもしれない。

その後の私は、実験をやめた。
私は、次第に壊れていき、会議に行くこと自体をやめた。

召集されても、行かなかったので解雇されるかな、と思ったけれど、そう簡単にはされなかったし、むしろ怒られもしなかった。
ものごとが無難に着地できるようになり、私がいない方が会議はスムーズに進んだのだと思う。

私は、考えるたびに、全てが詰んでいると考えるようになった。
考えることが、生産性に敗北していた。

「で、あなたは、どう思いますか?」

これは、安易に聞いてはいけない言葉だった。
酸素が薄くなった世界で、いきなり火を灯されるような問いだった。
みんなを苦しめたのだろうか?

私は何をしたらいいのかな?
考えを持たない事が正解だった。

“正解”という名の氷をじわじわと溶かしていくような温かさは、なかった。

結局私は、会議に行かない人になって半年以上が過ぎていた。
ある日、YouTubeでふと目に入った動画で、腑に落ちるなと思ったことがあった。

「わからなくても、やってみるんですよ」
「失敗したら、直せばいい」
「未完成なままで、ひとまず出してみる」

その言葉に、私はなぜか胸がいっぱいになってしまった。
私もそう考えているし、そうしてきたからだ。

「わからない」という不安にとどまらず、
「やってみる」という行為に踏み出す力。
それは、“思考する勇気”の別名なのだと思った。

結局のところ、思考というのは「成功するための手段」ではないのかもしれない。
それはもっと静かで、個人的で、
世界と自分の関係性を確かめ直す、ほのかな営みなのだ。

答えがなくても、やってみる。
言葉にならなくても、問いを持ちつづける。

それを許す世界で生きたい。
自分にも、誰かにも、
「すぐに答えなくてもいいんだよ」と言える空気を残しておきたい。

だから、許されたのだ。
物語は、たぶんそこから始まる。

自分の中にある考えが復活してきた。

誰かの、
とても静かな、でも確かな、始まりを作れそうな気になってきた。

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