「楽にやろう」
「無理しなくていい」
そんな言葉に、少し嫌悪感が出る人がいるのではないか?
でもそれは、苦しみを推奨したいわけじゃないのだろう。
たぶんその人は、“楽”に反応しているんじゃない。
“浅さ”に反応している。
深さを省略されることに、違和感を覚えているだけだ。
消せるなら、消したい?
もし人生から、あの地獄のような経験を丸ごと消せるボタンがあったら。
押すだろうか。
多くの人は、
「したくなかった」と言う。
それは正直な気持ちだ。
でも同時に、
「消したくはない」とも感じる人がいる。
これは矛盾じゃない。成熟だ。
苦労を礼賛したいわけじゃない
経験を美化したいわけでも、正当化したいわけでもない。
ただ、あの深度を軽い言葉に変換されたくないだけだ。
苦労を礼賛しているんじゃない。
深度を、軽く扱いたくないだけ。
私の立ち位置
私は、苦労を推奨しない。
それで人が壊れるのを知っているからだ。
でも、通った人の深度は尊いと思っている。
そしてその深度は、簡単には再現できない。
だから「楽」を連呼されると、心のどこかで思う。
深さは、どこへ行ったのだろう、と。
私は結果よりも、変容のプロセスを見ている。
評価基準とは違う場所から、観測している。
二種類の「楽」
一般的に語られる「楽」は、ショートカットとしての楽だ。
最短距離で、消耗を避けるための楽。
でももう一つ、質の違う楽がある。
深度を通ったあとに訪れる、静かな楽。
同じ言葉で呼ばれるけれど、この二つは構造が違う。
深さは、省略できない
「最短距離の楽」を語る人は多い。
でも、いくつかの層を通過した人から見ると、それは明確に別物に見える。
ただ一般的には、どちらも同じ「楽」として語られる。
だから混線が起きる。
深さは、効率化できない。
再現もしにくい。
でも確かに、人の中に残る。
私はたぶん、その「残り方」を見ている。

