これは支援の話ではなく、構造の話です
共感力は、能力として語られることが多い。
「人の気持ちが分かる」「寄り添える」「察することができる」。
ただ、その共感力を持つ人ほど、
なぜか疲弊しやすく、立ち止まりやすく、
「自分は向いていないのではないか」と感じやすい構造がある。
これは性格の問題ではない。
努力不足でも、感情が弱いからでもない。
使い方が、構造として整理されていないだけだ。
共感力が使われるとき何が起きているのか
共感力のある人は、状況を感じ取っている
相手の感情の動きを把握している
どこに無理が生じているかも、なんとなく分かっている
一方で、それを言語にしたり
境界線として切り出したり
判断や設計に落としたり
という工程が、構造として用意されていないことが多い。
結果として、
「分かっているのに動けない」
「感じすぎて混線する」
という状態が生まれる。
なぜ苦しくなるのか
共感力は、そのままでは資源として扱われない。
- 役割になる
- 無償で期待される
- 前線に立たされ続ける
こうした配置が続くと、
共感力は「価値」ではなく「消耗」に変わる。
重要なのは、
共感力そのものが問題なのではなく、
共感力をどう配置するかの設計が存在しないという点だ。
混線しているポイント
多くの場合、次の線が引かれていない。
感情と構造の線
理解と責任の線
関わることと背負うことの線
共感力のある人は、この線を内側で全部引き受けてしまう。
だから疲れる。
だから壊れたように感じる。
でも実際には、線が引かれていない回路に流されているだけだ。
私がやっていこうとしていること
ここで扱っているのは、
個別の悩み
感情の受け止め
リアルタイムな反応ではない。
やっていくのは
- 状況を構造として整理すること
- 感情を分解し、配置し直すこと
- 境界線を「考え方」として提示すること
つまり、共感力を直接使うのではなく、
共感力が壊れずに回る構造を言語化している。
「共感しなくていい」配置という考え方
意外に思われるかもしれないが、
共感力のある人ほど、
「共感しなくていい場」が必要になる。
- 何かを提供しなくていい
- 支援役を演じなくていい
- 誰かの感情を処理しなくていい
これは逃げではなく、機能を保つための設計なのだ。
共感力を常時オンにする前提は、長期的には成立しない。
前線に立たせないという選択
共感力は、必ずしも人の前に出す必要はない。
設計
レビュー
判断の補助
品質の確認
こうした後方の配置で使われたとき、
共感力は最も精度を発揮することがある。
これは能力の格下げではなく、最適配置の問題だ。
これは「やさしい話」ではない
誰かを救う、という物語ではない。
癒す、という役割を担う話でもない。
これは、
共感力という資源を
消耗させず
回り続ける形にする
ための構造の記録だ。
最後に
もしこの文章を読んで、
「自分が壊れていたわけではなかったのかもしれない」
と感じる部分があったなら、
それは感情が救われたからではない。
位置が分かっただけだ。
ここは、そのための言葉を保存しておく場所として書いている。
反応を集めるためではなく、
消費されるためでもなく、
後から戻ってこられるように。

